無条件の受容は心を開く

わたしはセラピストをしていたこともあって、

人の話に耳を傾ける機会は多かったと思います。

 

それ以外にも、普段から不思議と打ち明け話をされることも多い方でした。

心身共に消耗してセラピストのもとを訪れたのに、

施術の間中、延々と彼女の身の上話を聞かされ、よけいに疲弊したり。

 

ですが、わたし自身は、長いこと、

自分の話をじっくり聞いてもらう体験がないまま生きて来たように思います。

思春期の頃からずっと

自分と同じように深く人生を感じ、共感してくれる人を求めていたにもかかわらず。

 

でもそれは、

わたし自身が、

自分のありのままの胸の内を、本当の思いを明るみに晒すのを半ば諦め、

蓋をしてきたからなんだと思います。

 

どうせ言っても、本当のところはわかってもらえない

自分のことは、自分にしかわからない、って言うしね…

 

それは、

本来の自分を無邪気にさらけ出して甘え、それをありのままに受容される体験

が欠けていたからなのかもしれません。

物心ついた時には年子の弟がいて、

彼が後ろから走ってきたら、母と繋いでいた手を自ら離して彼に譲るような

ずっとそんな気の使い方をしてきたからかもしれません。

 

だから学生の頃は、ジョンレノンに惹かれていました。

(すでに故人でしたが)

彼の露悪的とも言える言動、

脆さと危うさが漂う素っ裸で強烈な存在感に

自分が心の奥底に閉じ込めてしまった欲求を、投影していたのでしょうね。

 

***

 

存在そのものを受け止めてもらう

そんな「無条件の受容」の体験は、人を変えます。

 

人生のどん底、迷いと苦しみの渦中で、

どこにも命綱を見出せずに溺れかけている

そんなわたしを見かねたのか

セラピストの友人がマッサージのセッションを差し出してくれたのです。

 

彼女は何も語らず、わたしも何も語らなかった。

彼女はただ在って、わたしの存在をただ感じていた。

存在と存在が、ただ体を通して、触れ合っていただけ。

 

そこには何の判断もなく、無条件の受容があるだけ。

 

***

 

誰かにただ触れてもらえること

あるいは、誰かにただ話を聞いてもらうこと

 

惨めで恥ずかしい自分も、後悔と罪悪感にまみれた自分も、

苦しみもがく自分も、

「今はそうなんだね」「そんな時もあるよね」と、

ただ、ありのままに受け容れてもらえる時、

心の中で何かが弾ける瞬間があります。

 

それは、ハートが開く、

とか、

無条件の愛に触れた、

とでも言うような、

生まれて初めて体験する、とてつもなく大きくて深い感覚。

バラバラで別個であったものが、

実はつながっていたのだ、と悟るような。

 

 

迷っていても、惨めでも、もがいていてもいいんだね…

今はもう、頑張らなくていい…

このままでいていい、こんなわたしでもいい…

 

受容がすーっと体に染み込んでいくと

深い安堵感に包まれます。

 

迷子の子どもが、母親を見つけた瞬間、ホッとして泣き出すように

一気に緊張が解けて、涙があふれ出します。

 

 

そこで生まれた自分への許しは、

ゆっくりと胸の中で波紋のように広がっていって、

やがては

自分への愛おしさ、

人生への愛おしさ、

自分を取り囲むすべてを愛おしむ気持ちへとがっていくのです。

 

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